はじめまして!
京都から世界へ!
想いを建築する書導家
藤井 翔夢です
想いを建築するとは。。。
「想い」という構造物の中で
関わる全ての人たちが切磋琢磨し
成長し幸せへと導く
経営者とは社長だけではありません
あなた自身があなたの人生の経営者です
経営理念
あなたのど真ん中の想い
これらを書の力で導き出す
これまで建築家として25年以上
建築の世界にいました
20年の会社経営の中で3度の経営危機を経験し
お客様、取引先、スタッフ、金融機関
友人、知人、そして家族。。。
関わる全ての人たちに対して
幸せを共有することができなかった
その後悔から50歳を迎える時に
それまでの建築を手放し
自分の中のど真ん中で生きる
筆一本で勝負する覚悟を決めたんです
そしてなし得なかった
関わる全ての人たちを
幸せへと導いていく
「想い」を大切に
書の力を信じています
<マイストーリー>
四国の田舎の小さな小屋で生まれました
私は、母一人子一人の母子家庭で育ちながらも
幼少期は野球、習字、そろばん、水泳と
多くの習い事をさせてもらいました
決して裕福ではなかったけどそこには愛がありました
非常に厳しく育てられ5歳から書を習いました
当時は、お稽古が嫌で嫌で泣きながら何時間も
お稽古していました
小学3年生の時から野球に目覚めました
昔ですから非常に厳しい練習でしたが
野球が大好きでした
学校では生徒会長もつとめ野球でも2つの高校から
スカウトされる選手になりました
地元の高校で甲子園を目指す!
そう意気込んでいた矢先のことです
いざ高校進学を決める最終日
そう、願書提出日の前日に担任から
「進学コースへ変更しなさい」と。。。
母と相談しましたが
母からの「野球で飯は食えへん」の言葉と
野球の道具も高くなるし
これ以上「母に負担をかけられへん」と
自分で勝手に
甲子園への道を諦めたのです
このことが今も人生の唯一最大の後悔です
「諦めてしまった。。。」
「逃げてしまった。。。」
それ以降随分長い間、無気力無関心無感動の
時期を過ごしました
25歳で結婚し、子供も二人授かり幸せな生活を送っていました
31歳で建築設計事務所を設立するも
親会社への依存体質から3年で資金ショートし経営難へ。。。
残ってくれた2人のスタッフと再スタートし
自分で顧客を開拓しコツコツと売上を伸ばし
銀行の取引も3行になり立て直しました
設備投資も敢行しさらなる成長を目指し邁進していた頃
今度は、京都市の高さ制限変更による条例改正
さらに追い討ちをかけるようにリーマンショック
デザイナーズマンション設計が売上の9割以上を占めていたため
一気に2度目の経営難へ。。。
自宅で一人で仕事をしながら再起を目指していました
息子は少年野球をやっていたのですが
全然練習に行けず息子と野球を楽しむことはできなかった
息子が6年生の卒団前に当時3年生だった娘が少年野球を始めました
娘が「お父さん野球やる!」
と言ってくれたのです
娘はチームでたった一人の女の子
私は、3年間娘と必死で野球に向き合いました
そう!もう一つの甲子園を目指したのです
息子も娘も控え選手。。。
控え選手がレベルアップすれば必ずチームは強くなる
全員野球を掲げ親子共々一つのチームに仕上がりました
3年後、見事全国大会出場を果たし
娘は全国大会の大舞台でタイムリーヒットを放ち
その日はチームのヒロインになったのです
でも人生山あり谷あり波乱万丈
今度は、多額の代金未払いに合い
3度目の経営難へ。。。
結局離婚
全ては自分が源
このことを忘れず決してあきらめないことを
信条に今なお果敢に挑戦しています
甲子園を諦めたあの経験から
もう二度と自分の人生を諦めない
そう決めたんです
それが「書」の道でした
厳しい母の口癖
「何苦楚」(なにくそ)
5歳から始めた書道は今では武器になっています
生き様や在り方を書で表現する
決して諦めない人生
あなたの熱い想いを書で表現し
夢を叶えていくきっかけを与え続けます
住所 | 〒615-8202 京都市西京区松室吾田神町192 エンティム上桂205 |
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営業時間 | 9:30〜17:30 |
定休日 | 日・祝日 |
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